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2005年-2025年
これからの20年における日本人と英語、日本語

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2005年4月1日 (株)アゴスタ 篠原泰正

 
 国際共通語としての英語とそれへの対策

唯一の国際共通語としての英語の位置は、残念ながら変えられないだろう。少なくともこれからの20年は変わらないだろう。このことを前提にして、個人として、企業・団体として、国としての対策を明確に持つ必要がある。

 
 なぜ英語はこの位置を占めることができたのか
なぜ英語だけが今の位置を享受できるようになったのだろうか。
(1)  先ず考えられるのは、英語は、物事や考えを論理的に表現するのに適した言語である、といういうことになろう。
(2) そのことは、別の面からみると、すなわち、論理的記述に適しているということは、構造的にしかりした言語である、ということになろう 。構造的であることは、表現の形式において自由度が少ないことになり、これは、外国語として学習しやすい言語、つまり、習う人の民族文化に影響されずに、頭でその法則を理解すれば学習の基本が得られるということになる。
(3) その昔、ルネサンス、大航海時代に対応して、元来の英語には欠けていた、人間の思索、技術、社会体制等を表現するための高度な単語をラテン語から借用してきて整えたので、それだけの完成度と普遍性をもっている言語であること。
(4) 19世紀に始まった科学技術、工業化、システム化文明の時代は、論理的記述を必要とし、そのニーズに適した言語であったこと。
(5) 同時にこの二世紀は、英語を母語とする英国と、ついで米国が、圧倒的な政治、経済、軍事力の優越を維持し続けた世紀であったこと。
(6) 最も新しい出来事としては、ソ連邦の崩壊と中国の変身によって、特に経済面でアメリカ式の優越を多くの人が信じたこと 。この結果、アメリカ式のグローバル化が急速に進展したこと。
(7) グローバルなシステムを経営・運営するためには、そこで使われる言葉をできるだけ一本化することが効率上必要であること。

結果として、唯一の国際共通語としての英語の位置はますます強固になるばかりである。

 
 その中で、日本人はこの英語に対して、どうすればよいのか

共通語としての英語を武器にして、グローバルな環境で戦わなければならない日本人は、労働人口の5%、3百万人、つまり20人に一人は居ると推定することにする\r 。その予備軍としての大学生においても比率も同じであろう。

この3百万人にとって、英語力は、クニの戦い、企業の戦い、自分自身のための戦いに、密接に関係するきわめて重要な要素、つまり、修得せざるを得ない「武器」である。

しかし、どんなに修得に努力しても、英語を母語とする者には、言語の扱いで勝つことはできない。母語とする人の英語が自動小銃とすれば、われわれの英語は単発の三八式歩兵銃のごとしであり、こちらが一発撃つ間に、向こうは10発ほども撃ってくる\r 。英語と親戚のゲルマン語系言語を母語とする人は7、8発ぐらい撃てるだろう。ロマンス語系の人は5、6発。中国語の人は、3、4発ぐらいは撃てそうである\r 。英語習得において、日本人は世界の中でもっとも不利な条件下にある。

われわれがどれほど不利な戦いを強いられているかは、考えるだけでも憂鬱になるほどであるが、まさか今更鎖国をするわけにもいかず、逃げるわけにはいかない戦いだから、この武器の扱いができるだけうまくなるように修得するしかない 。それが嫌ならば、英語と関係のない、グローバル化と関係の無い場所や仕事に従事したほうが良い 。ほとんどの日本人は英語無しで生きていけるし、それで何等不自由、不都合はないはずである。

 
 なぜこの3百万人は英語が必要なのか

英語が必要なのは、敵を知るためである。この3百万人にとって、英語で情報を得、分析し対策を練る能力(インテリジェンス)が無ければ、任された役割はこなせない 。つまり戦いに適さない職務不適となるだろう 。今、世界を支配的に動かしている民族は英語を母語とするアングロサクソンであり、彼らの主張や策略を、発表された生のまま受け取り分析できなければ、いいように振り回されるだけとなる。

もうひとつは、こちらの、観察事実、分析結果、発明や製品の内容、意見、提案、等々を相手に伝えるために必要である。

つまり、国際共通語とは、グローバルな環境で仕事をしている、また、せざるを得ない人々が、互いに情報と意思を交換するために使う道具としての言語であるから、そのような場に居る人は修得せざるをえない。

 
 この武器を主兵器にして戦うことは不可

しかし、外国語として修得した英語で、それを主たる武器として戦える人は、日本人としては稀の稀であろう。たとえば、あなたが外国語として英語を習い、米国で弁護士として活躍しようとするなら、おおいなる才能と大変な努力が必要となろう 。このようなレベルまでの修得は特殊な分野での課題である。

日本という集団でみるなら、戦うねたは「モノ」であり、これは得意中の得意であるから、これを先頭にして、英語はその「モノ」を補強するために必要、という位置づけがもっとも安全なところであろう。

一方、英語を母語としている米国の指導層(国家、社会、企業の)は、自分たちのやり方を際限なく押し付けてくる習性を持っているので、それを押し返さないとカモにされてしまう 。すでに滅茶苦茶にカモにされているわけだが、この面では必死の防衛戦を戦うことになる。

つまり、攻めにおいては、強い「モノ」の補強と、システムとか仕組みにおいては日本式を守るための防衛において、戦闘に耐えうるだけの英語力がこの3百万人には要求されていることになる\r 。これは、TOEICで何百点などというお嬢様芸の英語力の話ではなく、やるかやられるかの厳しい実業の世界での英語力が課題である。

 
 英語力を効率よく高めることは可能か

それでは、日本人が苦手とする英語を、できるだけ効率よく修得することは可能なのだろうか。

 
 なぜ英語が苦手なのか

われわれ日本人が英語を苦手としている原因は以下の事項が考えられる:

(1)  処理順序が異なる
よく知られているように、表現の順序が異なること。これは、処理という面からは大問題である。すなわち、日本語の処理手順では処理できない 。つまり、次に何がくるのか予測できないため、処理不能におちいる場合がしばし
ば起こる\r 。文章を読むときは、まだ自分の都合で処理時間を按分できるが、会話の場合は相手の速度に合わせて処理していかざるをえず、しばしば処理速度が追いつかないことになる。

一方、こちらから表現する場合も、出していく順序がことなるため、しばしば頭の中が渋滞し、あるいは手馴れた日本語式順で表現してしまい、相手に正確に伝わらない結果になったりする\r 。英語の順序で表現してやらないと、
相手が今度は処理できなくなる。

中国語の場合は、例えばSVOは同じ順序であるというように、似ているところがあるので、中国人のほうが日本人よりも、英語の修得では有利であることはまちがいのないところであろう。
(2) 文化・民族性の違い
日本人の文化として、英語のようにずばりという言い方には抵抗感が強いこと。つまり、英語で表現する場合には、心理的な抑圧感が働く 。これが、表現を鈍らせる\r 。文化が言語を生み、言語が文化を育てるとみるなら、先に述べた表現の順序と、ずばりと言うことを控える日本語は、まさに日本文化を表すものであり、英語およびその言語を生み出してきた文化は、われわれ日本人にとって、極めて馴染み難いものということになる。

英語およびその文化は、我と汝(物体も含めてのオブジェクト)の対立の図式で表すことができ、日本語およびその文化は、我と汝が自然のなかで共生している図式と言える。

このように、根本的なところで異なる言語の修得が、いかに難事業であるかは容易に察することができるところで、これだけみても、日本の国民全部に英語の修得を強制することが、如何に現実と懸け離れた暴論であり暴挙であるかは明白である。
 
 外国語として習う上での英語の利点

一方、英語は、外国語として習う上で、がありがたい面もある。
つまり、英語がなぜ唯一の国際共通語と成り得たかの理由に記したように、この言語は極めて構造的であり、それは別の面から見れば、論理的に表現する上で極めて有効な言語であるから、その構造を論理的に理解すれば、基本の修得は容易である。
つまり、文化が異なる人でも、外国語として、頭で、すなわち論理で理解し習得する道が大きく開けている言語といえる。

 
 職務で英語を必要とする人以外は英語学習は不要か

今まで述べてきたように、自分の置かれた位置、役割、仕事から、何が何でも英語を修得する必要がある人が存在する。ただしこのような位置に居る人は国民全体からみれば一握りの人達である\r 。それ以外の人は、このような苦しい「修業」に悩まされることなく、英語ができなくとも生きていく上で何の支障も無い。

しかし、外国語を学ぶ利点は、実用以外のところでもある:

 
 楽しみ、教養としての英語

英語で書かれた原本で、英国人や米国人が書いた小説などが読めれば、その人にとって、世界はまた一つ大きく開ける。世界の多様性を知り、自分および日本の存在を振り返る刺激となる\r 。実利ではなく、知性、教養と人間性を高める上で、外国語を学ぶことは大いに有効である\r 。この場合、対象となる外国語は英語だけでなく、それなりの文化の奥行きをもった国や民族の言語なら何語でもよい。

 
 子供の時に英語を学ぶ利点

中学で、義務教育として、全員が英語を学ぶ意義は何か。
英語という存在に触れる事で、母国語である日本語の世界のみに居るときにはとかく見過ごしがちな、人間と言語という主題を考えるきっかけになる\r 。世界には、様々な人が様々な言語を使って生きていることを、少しながらでも実感できる\r 。同時にこれは、日本人としての自分を意識する始まりでもあり、日本語というものを見直すきっかけともなるだろう。

生徒に、人間、文化、言語、というものに興味を持たせることができれば、その英語授業は成功したと言っていい 。中学はそれ以降の、だれもが続ける生涯の「勉強」の土台をつくる時期であり、当然、職業訓練所ではない。
たとえば、「はうあーゆ」「あいむふぁいんさんきゅー」のごとき会話の授業は、ホテルの従業員にたいする職業訓練であり、義務教育の貴重な英語の授業に費やされるべきものではない。
この考えからは、英語力を学力の重要分野として、入学試験の科目に採用することは、少なくとも公立の学校においては止めるべき、という主張が出てくる\r 。中学校においては、英語は英語力を測るべき学習対象であってはならない。

英語力という特殊な能力が標準の科目として「試験」されることで、どれほど多くの子供たちが、自分のもつ才能や能力を発展させうるべき場から閉め出されたり、挫折したり、あげくは学習への全般的な意欲までそがれてしまっているかを考えれば、戦後60年にわたって行われてきた英語教育は、功罪の罪ばかりであろう。
大学まででても、ろくに英語ができない日本人がほとんであるという事実からみれば、日本の英語教育は壮大な「プロジェクトX」、すなわち「プロジェクト・ぺけ」であったといえるだろう 。さすがのNHKも番組で取り上げるのは躊躇するだろう。

 
 英語を修得する危険性

先に述べたように、英語は対立の図式で表せる文化の下にある言語である。したがって、英語で事実報告や考え方や分析を受け取る(主に読む)、英語で表現する、英語で討議するという場合には、英語力が高くなればなるほど、英語を母国語とする人の、この対立の図式の下での思考や分析様式に従って行うということになる\r 。これは、日本人としてのアイデンティティや、企業や国という団体の利益保持という面からは、極めて望ましくない、あるいは危険な状況を招きかねない。
実際のところ、英語およびその背景の文化にあるこの対立の図式が、今日の世界における様々な摩擦の原因の一つと言えるもので、21世紀には、対立ではなく、日本あるいは東洋の共生の図式がのぞましいのではないだろうか。
つまり、英語を操れば操るほど、日本人の本来の利点、あるいは今世紀にこそふさわしい共生の図式を捨てて、西欧を中心とした対立の図式のうえで、物事を説明し討議する羽目になりかねない。

このことが、課題を悩ましくする。英語を武器として戦わざるを得ない。しかしそれで戦えば戦うほどに、彼らの術策に陥る危険がある。

 
 英語で共生の図式を表現できるか

それでは、共生の図式で代表されるわれわれのものの観方、考え方を、英語で明快に表現できるのだろうか 。この問いかけえの答えが、外国語を修得する上での、もっとも高度な課題への回答であり、もっとも難しい回答となるだろう。
このことに答えられる人はほとんど居ないのではないだろうか。あるいは、もともとこの難しい課題が国や言語教育関係の識者の間で意識されているのかどうかも疑わしい 。そこでみられるのは、あいも変わらぬノー天気な、西洋礼賛、白人崇拝、英語万能であり、これは、町の英会話学校の繁盛をみれば、大衆においても同じである。

グローバルな環境で、英語で戦う3百万人の戦士たちが、深い経験を積み、日本人であることを忘れなければ、そこから初めて、われわれの、日本式の生き方を、英語を使って表現していく場面が見られるようになるだろう。
そのように期待したい。

ここでは、この高度な問題に対して、英語は修得しなければならない、しかしそこには、自己のアイデンティティを見失い、英語を母語とする人々の考え方や戦略、罠にひっかかる惧れがあるということだけ、大きな声で述べておきたい。

英語を母語とする人々、もっと限定すればアングロサクソンと称される民族に属する人のやりかたや戦略のお先棒を、とくとくとして担いでまわる「英語がよくできる日本人」の姿は、戦後60年の間、見慣れた存在であり、彼らの言動がどれだけ「国益」を損ねてきたかは、今、米国に引きづられて、ともに破滅への道を歩んでいるかにみえる日本の姿を考察すれば、理解しうるだろう 。それだけに、英語を修得せざるを得ない人たちは心して学んでくれと言いたい。

日本人としてのアイデンティティは見失うな、まともな日本語を先ず身につけろ、英語の力は数段伸ばせ、と一見相反するような命題に挑戦することを要求することになる\r 。たいへな課題なのだ。

 
 不利な防衛戦だけなのか

英語だけが国際共通語であり続ければ、これを母語とする集団、とりわけ民族のオリジナル言語としているアングロサクソンと呼ばれる民族集団がもたらす暴風雨の前に、ただひたすら耐え、ささやかな抵抗を試みてという、受身の戦法に終始するだけになるかも知れない 。おもしろくない話しである。

 
 英語に対抗する手はないか

英語が国際共通語であるという現実と、そのコミュニケーションの道具としての有効性を認めつつ、これだけしかないという偏りがもたらす弊害を少しでも減らすためには、英語と肩を並べるまでには至らなくとも、多くの人が外国語として習得する対象となりうる、その他の有力語を認めていくことが重要な動きとなろう。

欧州連合が、三カ国言語の習得を推奨する運動を起こしているのも、英語だけに偏る危険性を認識してのことだろう。つまり、二カ国言語であれば、母国語と英語という組み合わせしか、現状ではありえない 。これが、三カ国言語の修得が進めば、場合によれば、ある集団の会合はフランス語でなされたりスペイン語でなされたりということも可能になる\r 。すなわちその場に出席した人の全員が履修した外国語がフランス語であれば、英語でやらなくとも会議はできることになる。

このような有力語は、常識として考えるなら、母語として使っている人の数からみれば、中国、スペイン、ポルトガル、アラビア、ロシアといったところであろう。

 
 文明としての日本語はこれまで存在せず

文明とは、物を観る方法、考える方法、原理、技術、社会の仕組み、法制、システムなどを、文化と民族は異なっても、頭で理解することができる人には伝わるものである、と定義すれば、それらを表現し理解するための言語も文明としての言語と言えるだろう 。歴史上は、中国、ギリシャ、アラビア、ラテンなどの言語がそれにあてはまり、近代においては英語がその栄誉を持つだろう。

日本語はそのような役割を意識したこともなく、日本という地域の中で、日本文化と密着して育ってきた閉鎖的な言語である。
英語が論理表現に適している言語であるとすれば、日本語は詩歌の表現に適した、極めて叙情的な言語と言えるかもしれない 。その曖昧さと余情が、色彩と造形の世界とあいまって、日本の美を作り上げてきた。
したがって、外国語として日本語を習得しようとする人は、その曖昧さという障壁を克服することは難事業だろうな、と同情もしたくなる。

 
 このままでよいのか

明治維新以来、国民の誰もが使える言語とすべく、たとえば話し言葉と書く文章のできるだけの一致をはかる(言文一致)など、明治の先人達は大変な努力をしてきた 。そのお陰で、ありがたいことに、われわれは、文化を同じくする者同士であれば、情報や意思の交換に何等支障のない言語を手にしているし、他言語のそれを日本語に転換する上での柔軟性も十分に持った言語を母語として享受している。
この言語にいちゃもんをつけようというわけではない。

一方、世界の人々を相手として意識したときに、誰にでもわかる平明な表現というようなことを、われわれは意識してきたであろうか。そのための努力をしてきたであろうか 。否である。
一方では、日本語は特殊で世界の中でパブリックな位置を占めることはできるわけがない、と端から諦め、あげくは、だから世界の場では英語で表現できるように、英語を第二公用語としよう、などという狂人が出てきたりする\r 。ここまで狂ってないにしても、小学校から英語、という動きなどもその類といえる。

 
 日本語で論理的に表現できる

ここに一つの、考え、概念、アイデア、原理、発明、機構、技術、製品、社会システム、団体などがあるとする\r 。これを前にして、そのものを論理的に表現(主に記述)することは、英語でもスペイン語でも中国語でも日本語でも、皆同等に可能であるはずだ。

日本語は先に述べたように、日本文化との関係が極めて濃く、どちらかといえば詩歌に適した叙情的言語であるが、論理的に表現できないことはない 。その昔に輸入した中国語(の一部)と明治以来の先人の努力のおかげで、日本語は完成度の高い言語であり、論理的な表現(記述)も十分に実現できる。

問題は、たいていは仲間内の日本語だけを課題にして、ほとんど誰も、この「論理的に表現する」という課題に取り組んでいないところにある\r 。例えば、日本語の問題というときに登場する識者のほとんどは、言語学者であり文学者、小説家、哲学者、評論家というような職種の人だけで、科学や技術の権威が日本語を語る場面には、昔の寺田寅彦を別にすると、ほとんど出会わない。
世界の中で、日本語の存在を確立していこうという考えも行動も見られない。

明治の偉人たちは、近代文明に対応できる日本語をつくりあげるために、大変な努力をしてきた。今に生きるわれわれは、世界の文明のなかで、それを支える重要言語のひとつとして、日本語をどのように仕立てていけばよいかを、真剣にかんがえる役割をもっているのではないだろうか 。それが、とてつもなく大変な課題であるにしても。

 
 日本語で表現する

われわれは、世界への表現は、そのほとんどを形ある「もの」、および造形美術や画像(映像を含む)でのみ行ってきた 。言語でもって他者を説得することが苦手であり、かつ多言を卑しむ倫理感の下で育ち、一方、造形美には鋭い感性を持つ日本民族としては、それがきわめて理にかなった戦略でもあった。

その反面、日本語は世界では通用しないことを前提に、言語で表現する努力を怠ってきた。端からあきらめてきた 。その特殊性からみればそれも当然であるが、勉強すれば習得の道が開けるという、開かれた日本語を構築する努力を誰もしてこなかったわけだ。

 
 「もの」と画像で表現できる範囲は限界がある

概念、原理、技術、仕組み、システム等々は言語で表現するしかない。少なくとも言語が主であり、図面はその補助である。これらの技術とかシステムは、文明としての存在であるから、言語が異なっても、論理的に表現してあれば伝えることができる対象である\r 。また伝える義務があるものも多い。

 
 翻訳の容易

これらの文明の範疇に属する対象について、論理的に明快に記述されていれば、異なる言語の間での翻訳は、比較的容易な作業であるはずだ 。例えば、科学技術の世界において、電気の流れは民族と文化に関係なく、どこにおいても同じ原理で流れるわけだから、どれくらいの容量の電気が、どこで生まれ、何を通して、どこからどこへ、どのようなタイミングで、何のために流されているのかは、英語でも日本語でも正確に同じに記述できる\r 。違いは、使われる文字と、記述の順序と、言葉(単語)だけであり、これらは問題なくそれぞれの言語に転換できるはずである。

 
 開かれた日本語を

世界が英語一色に塗りつぶされてしまわないようにするには、英国以外の欧州連合の努力(抵抗)に歩調を合わせて、日本語も世界で通用する場面を少しでも実現させようとの努力をするべきであろう。

そのためには、世界で、共通の課題として討議される事項に対して、日本語で論理的に明確に表現することが基礎となるだろう。共通の課題とは、その大半が今日の文明に根ざす事項であり、一つの文化に深く根ざした事項ではない 。したがって、汎用性のある事項を論理的に明快に表現することは当然に可能なことである。
開かれた日本語を構築する努力を続けていけば、世界の中でも、日本語を習得しようという、歓迎すべき人の数も増えるだろうし、一方では、英語やその他の言語への転換も正確に、効率的に行えるようになる。
そうなれば、英国以外の欧州連合から、英語一色への抵抗運動の仲間になれと誘いも来るだろう 。中国からも同盟の誘いが来るかも知れない。

このような、世界に開かれた日本語、「オープンジャパニーズ」の構築に向けての、意識的な努力が出てきてもいいのではないだろうか。

 
 仲間内の隠語としての国内特許明細書

開かれた日本語、論理的に明快記述の日本語の、反対の極地にある例が、日本国内で出願される特許明細書に見ることができる\r 。日本語を母語とする、しかもそれ相応の知性と知識がある者が読んでも理解できない文章とは、いったい何なのか。
なぜにこのようなバカバカしい事態が続いているのだろうか。
通常の理解力を持つ人が読んで理解できないということは、論理的に明快に記述されていない証左になる。

 
 不明快な日本語文章

母語を同じとする他者が、一読して内容を理解できないような文章を書く人は、以下のいずれかのタイプに属するか、あるいはその要素が重複しているとみなせる。
頭脳不明晰:頭が悪くて、明快に文章を構築できない。
卑怯:いざというとき責任を逃れられるように、ぼかして書く 。この技能が高いと、意味がどちらでも取れるような高等なる曖昧文章を書くこともできる。
不親切:他者にわかってもらおうとする配慮が欠けている。あるいは他者を自分より一段と下の存在とみなして、馬鹿にしている。
田舎者(イナカッペ):自分たちの小さな村(仲間内)でのみ通用する言語しか使えない。外の世界を知らない。

 
 特許明細書

特許明細書は一つの技術発明を言語で記述するものであるから、完成度が一定の水準に達している言語であれば、何語で書いても、基本的には同じことを記述できるはずであるし、またそういう記述であるのが望ましい 。したがって、元が英語でかかれた明細書であれば日本語に正確に翻訳しうるものであろうし、その逆の流れも同じである\r 。もちろんここでの論議には、翻訳者の力量とかの個人の腕に関係する要素は無視している。
しかし、現実はそうなっていない。国内出願の日本語が意味不明のものであれば、当然のごとく、どんなに翻訳者の腕がよくても明快な英語に翻訳できるわけがない 。この当たり前のことが疑問もなく何年も何十年も続けられていることは、不思議というかお笑いというべきか。

なぜこのような意味不明の日本語文章が国内特許明細書で横行しているのか、という問いかけに、「特許権利の範囲をできるだけ広く押さえるため」というような回答が得られる\r 。国内特許に関係している人全員がそれに納得しているのなら、門外漢がとやかくいうこともないのかもしれない。しかし、この考え方は、一歩日本の外にでれば通用しない 。そのため、国の外で通用させるには、別の特許明細書を書かねばならなくなるだろう。ところが、PCT(Patent Cooperation Treaty)の約束の下では、国内出願の優先権は認めるが、それを英語で提出するときは、国内で出願した内容と同じ事項を記せ、となっている\r 。当然であろう。優先権を認めた出願と英語で記述されたそれが異なる記述をされていれば、そこで主張されている発明が別物となってしまう惧れがでてくる\r 。その結果、現状では、優先権を持つ国内出願明細書の意味不明の日本語をいくら英語に翻訳しても、欧州の本部からは、「意味不明」として突き返されて不思議はない。

 
 文明に属する事項を日本語で論理的に明快に記述する運動

上に挙げた特許明細書だけにとどまらず、文明に属する、あるいは言い換えれば世界の共通事項に属する事項を、日本語で論理的に明快に記述する必要性は、霞が関の公文書から企業団体の製品仕様書、説明書、情報開示書等々、世界に伝える必要のあるもの、求められるものまで様々に膨大に存在する。
このための学習、すなわち論理的に明確に日本語で記述する学習は、日本ではどこでも行われていないようである\r 。大学の教養課程の講座にあるという話も、企業内研修で行われている話も、寡聞にして聞かない。

 
 特許明細書は技術文書

特許明細書(Patent Specifications)は技術文書と法律文書の混ざったものであるという話を聞くが、明らかにこれは嘘である\r 。少なくとも米国特許明細書(クレームを含む)は、単に技術文書の一つであり、より限定すれば英語での表記のとおり技術の仕様書(Specification)の一種に過ぎない。
発明の権利を主張する仕様書であるから、その記述において主張する権利の範囲を損なわないように、他者の権利に引っかからないように、法的な眼で注意を要するというだけで、記述される文章は技術の記述であり、法的事項の記述ではない。

技術文書と法律(法的)文書の混合であるという嘘は、大きな弊害をもたらしている\r 。すなわち、法的なものが混じっているとのことだからなにやら難しいものである、という偏見を多くの技術者が抱いており、そのことは、英文特許明細書を読むことを敬遠したり、自分の発明を記述した英文出願書をチェックせずに承認したり、あるいは何か少しおかしいなと思っても、特許明細書は法的なものだからその面で素人の自分が口出しすべきではない、と控えたりすることにつながっているのではないか。

 
 技術は文明である

技術は、民族と文化の違いに関係なく、論理的に物事を理解できる頭脳があれば誰でも活用できるものとして、まさしく文明である。技術の伝播は、それを組み込んだ現物をみることで、絵(図面)を見ることで、および言語(聞く、読む)でおこなわれる。その中でもっとも重要な媒体は、明らかに言語であり、仕様書は文章の記述を主にして、図面を補助にして構成される。
したがって、記述されている文章が読めなければ、当然その技術は理解できず、その人に伝わらなかった、ということになる。

 
 情報の開示

特許はその発明に独占権利を与える見返りとして、その発明に関する情報を開示する義務がある。しかも、わかりやすく記述せよと指示もされている。この指示に従わない者は、義務の不履行として、特許が与えられないか、あるいは与えられても他者と権利の争いになったときには著しく不利になる。何を言っているのかわけがわからない人に、普通は誰も味方しない。読んで理解できない文章に出会えば、誰もが不愉快になるだろう。なんでもっとわかりやすく明確に書かないのだ、とその書類をゴミ箱にたたき込みたくなるのが、通常の反応であろう。

 
 米国特許明細書はわかりやすい

明快に書かれてなければ特許が得られないのだから、米国特許明細書はわかりやすい。もちろん米国特許庁も商売であるし、審査官も人間であるから、わけのわからない明細書でも特許になりうるケースも多い。
一般的に言えば、米国に本社籍を置く大手企業の明細書はわかりやすくキッチリと書かれている。おおきな費用をかけて権利を取るためにわざわざ出願するのだから、遊びや冗談ではなく、あるいはルーチン作業で「ともかく出しておけばいいや」で行っているわけではないので、キッチリと作成するのはあたりまえである。

 
 アングロサクソン人と日本人は似ているところがある

アングロサクソン人の特性の一つに、自分たちのやり方が世界で一番正しい、優れていると思い込む単純性がある。日本人の特性の一つに、よその家でも、自分たちと同じやり方をしているだろうと思い込む、世間知らず性がある。
アングロの特性は、おせっかい、おしつけがましいと嫌がられる基であり、日本人の特性は、世間を知らないうぶなお人好しとして、絶好のカモとして扱われる基になっている。

英語がわからなければ、インテリジェンスが不足して、戦争に勝てるわけがない。日本語で論理的に明快に主張できなければ、世界のなかで味方は得られない。

「得手に帆をあげて」モノづくりで食い続けていくためには、「良い品物」を黙々と作り続けるだけでは成り立たず、苦手の「言語」も「モノ」にしなければならない。それができなければ、日本は、「良い品物」という資産を抱えたまま、世界の中での「斜陽族」となっていく運命にあるだろう。

以上